昭和51年 7月4日
御理解 第47節
祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするから、おかげにならぬ。
薬れ祈れにするからおかげにならんと断言してあるのですから、信心にない人達は、祈れということは、全然知りもしません。只、どうかあれば薬だ医者だというわけです。信心しとってもやはり薬は薬だと医者は、医者だと言う人もあります。
けれども神様にお願いして医者にかかる、それで、良いという様な方もありますけれども、私は、薬れ祈れにするから、おかげにならんと言われるおかげとは、どういうことかと。
それは、医者で病気が治って帰ってくる人は、沢山あります。あの薬は効いたというててきめんに効く薬もあります。だが、そいうい病気が治ったとか、痛みが止まったというようなおかげでは無いですよね。ここで言うおかげにならんとおっしゃるのは。
どういうおかげにならんか、そういう頂き方ではね、教祖様がおっしゃるのは、お徳にはならんおかげということです。やはりね、なら、例えば、祈れ薬れというてもです。お願いをして、医者にかかった、お願いして、薬を飲んだ、成る程、効き目が早いです。確かに。けれどもね、それではね、いわゆる神様を信じる力、いわゆるお徳にはならんです。だから早く楽になりたいという言うなら、考え方がありますから、さあ、薬を飲んだから楽になるごと思いますけれども、本当神様のおかげを下さるというのだから、医者も薬も勝つことじゃないです。
ですからそういうおかげを頂いて、初めて、いわゆる信心を頂くことによって、いわゆるおかげにならん、おかげになる、信心しておかげになるというのは、痛い痒いが治るということではない。おかげになるというのはそういう事を通して、力を受けるという
です。その事を通して、お徳にするという事なんです。
先日から、おかげの早道というような御理解を頂くんですね。私はご神前で「法然」ということを頂いた。法然上人の「法然」です。これがおかげの早道だというわけです。だから、まずはね、まずは、天地の理法を知る事なんだ、だからそのことに専念するというか、例えばここの祈れ薬れすればという、ところをね、働け、働けと。働いたら楽になると普通では思っておるです。まずは一生懸命働かなん。働かんならお金ももうからん。お金がもうかりゃ楽になる。これは、常識です。だからお金さえもうかればどういうことをしてもいいか、またはお金さえもうかれば人の迷惑なんか考えないでもうかって行く。そして得々としておるということもあります。けれどもそれでは本当のおかげには、ならん。ですから私共も言うなれば、信心の道を体得する、信心の道を体得するということは天地の親神様の心が分かるということ。見易くいえば。少し難しくいうと天地の法則を知るという事。おかげの早道は、法を知ること。然かるということです。
法然というのは。私は頂いた時にそういう風に思うた。法然という方は別にいろいろな教えをするということよりも、ただ念仏の行者であられたというふうに聞いております。日に一万遍の南無阿弥陀仏を唱えるというのです。南無阿弥陀仏だけで極楽に行けるというのです。私は行けると思うですね。
もういうなら、一万遍南無阿弥陀仏を唱えるには、もう一日それにかかっとらにゃならんでしょうね。いうなら心に有り難いというという心がもうこれなら十分に間違いなしに頂けるでしょうね。これはもう理屈を抜きにして、人間が極楽行きの出来れる心の状態が理屈を抜きにして頂けるのです。
おかげは和賀心にありという、和らぎ喜ぶ心というのはです。人間の幸福のすべていうならこの世に生を受けておるという間だけでなくて、あの世この世を通してこの和賀心だけは持って行けるのだと。だから祈れ薬れでなくても祈れ祈れという信心、まあいうならば、信心本位と言う、または神様本位の生活。神様本位の生き方というてもいいでしょう。その神様本位の生き方を体得する事がまず先なんだ。これを先に覚えたら、おかげは嫌でもついてくるんだと、儲からんでも良いというても儲かるんだ。しかもです。薬れ祈れにするからおかげにならんということがないわけです。信心が先行しとるんですから。只、薬れ祈れにすればおかげにならんという、このおかげを頂きたいと私は、思うならばです。薬じゃない、医者じゃない。決して。人間が働いただけで楽になる事は決して無い。いやそれは、働いて儲け出してもです。決して楽にはならない。いやが上にも我情我欲がつのるばかり。ですから、どうでも一つ、薬れ祈れにするからおかげにならんということでなくて、この生き方を体得したらおかげになるという確信を、信心をさせて頂きたい。
昨日4時の御祈念に併せて桜井先生のお母さんの帰幽日に当たってましたから、私が奉仕させて頂いた。私は本当に有り難いなと思いましたが、いわゆる御霊様といえば肉体は無くしておられ増すから、所謂魂だけの世界です。だから魂がひとたび悟りを開いてね、いうならば、信心によって本当の極楽行きをしようと、発願する悟りを開くわけです。前世に於いてこの世ではおかげを受けれなかったけれども、いうならば、息子の信心によって、合楽に改式のおかげまでしてくれて、しかも日々親先生のご理解を頂いて、まあ生きとる間は、痛い痒いがあったり、あれが不自由、これが不足で、いうならば不平不足の生活をして来たけれども、それは、肉体がある故の不平不足であった。ああしたい、こうしたいというという、ああしたい、こうしたいという思いにまかせないと、不平不足が出た。けれども御霊の世界、心だけの世界、魂だけの世界に入ってみるとです。もう、5感の楽とか楽しみとかが必要でなくなってきた。いうなら、目で見る楽しみ、口で味わう楽しみ、耳で聞く楽しみ。テレビでやらお芝居やら見られる。目によって楽しむということができる。臭覚だってない。もうあるのは、魂だけの世界。お芝居、温泉なんか行かれんといったことはないのです。心だけが助からなければならない。それでも結局悟りを開かない御霊は、いつまでもやはり魂が濁っておる、魂は清まってないから、苦しみの御霊、安心、歓びの御霊になれない。いくらいうて聞かせても分からんということもあるけれども、一度改式のおかげを頂いて、こういう道理の問題をと分からせて頂いたら、毎日毎日ならここでご縁を頂いとる御霊が、ご理解を頂いて、心を開いて行く、いうならば心の清まることだけに専念する。だからね、魂を清める。
昨日梅の実会でした。昨日の御理解をもとにしてからのことでしたからね、もうお互い神様に向かって、いうなら生神を目指してと。親先生やら教祖様とは大体もう生まれが違う、だからとてもそりゃ僕どんじゃ、私達じゃ出来ないんだと。昨日ここの修行生の人達も一緒に参加しましたからそういう発表をしておりました。だからもう生まれつきが違う等と言いよったら教祖はね、みんなもこのとおりのおかげが受けられるとおっしゃるのにです、ね、受けられないことになる。だからそんなことじゃない。受けられる。ただしね、ならまず自分の我情我欲というものを取り去ること。いうなら自分が死んだ気になるということ。だから御神徳を受けた人達は、まず自分というものをむなしゅうする。
それを私は昨日私とこの紋所で昨日頂きましたがね。自分の枠というか、それを取り去ってしまうことなんです。ね、だからなんぼでも大きくなれる。いうなら心を芯にするということなんです。ね、死んだ気でというところには、不平もなければ不足もない。死んだ気で励めばどういう、いうならば働きでも出来る。そういうことになれば私は誰でも生神様になれるんだということです。「うん、そういう風に頂いて見ると、そうかも知れん。」という事でございました。昨日は、ね、もうあの人は、生まれつきで、そんなことはない。何かの機会に。なら教祖様とてもそうです。四二の大患で、もう助からんところを助けて頂いたところから、教祖の本当の御信心が始まっとるんです。私共でもそうです。いうなら終戦という大きな節に出会って、今までの信心の間違いに気付かせて頂いて、もういよいよ無力である自分。だから死んだ気で、我情もいはなければ、我欲も言わんですむようにおかげを頂くようになってきたところから、本当の意味でのおかげをなってきたようにです。御霊の世界にあるいわゆる御霊様はです。もう只、自分の心が助かりさえすれば良いという生き方だけなっておるわけです。
ですから私は、昨日御神前に出らして頂いたら、パイナップルのような大きなお芋がありましょうが、親芋じゃないです。親芋みたいな、あれは何という芋でしょうか。大きなとてもおいしい芋ですね。この位ばかりの大きな芋があるです。その芋を頂くんですよ。太い芋です。だから御霊さまは、今月の私が始めに、今月の信心の焦点というか夏季信行は太くなろう太くなろうという所に焦点を置こうということであったですね。だからこの芋じゃない御霊様自信もです。もう早速その修行にとりかかっておられる、しかも「芋」のお知らせは繁盛ということでしょう。芋はたくさん芽を出すというわけです。今月の信心の焦点を、太くするということですから、日々の生活の上に、あ、いろんな問題があっても、あ、これによって太くならせて頂くんだというような生き方を皆さんも身につけることの精進をされていようと思うけれども、その事だけに専念することだ。眼に見えない世界、もう本当に大事にせなければなりませんね。信心とはもうおおよそ眼に見えない神様を信じ、眼に見えない先祖の根を大事にしなければならんと頂くから分からんけれども大事にする。そこから、眼に見えるおかげ、いわゆる御霊様が一生懸命その太い根にならしてもらうことに精進させて頂いて、この芋がぞっくり芽が出る、その芽はいうならば、子供に孫に現れてくるわけなんです。
今日は私、この47節をから薬れ祈れにするからおかげにならんというような信心ばかりをお互いがしてはいないかという事を聞いて頂いたんですけれども分かって頂いたでしょうか。いやもう毎日おかげを頂きよります。それは、薬を飲んでおかげを頂いて医者にかかって快うなったに過ぎんのです。薬れ祈れにするからおかげにならん、だから薬れ祈れでなくてです。いはば祈れ祈れという心が中心。いうなら心が中心。おかげを頂かなければならんけれども、まずおかげを頂く早道は、まずは法を体得するということ。法を分かること。まずは、天地の理法を体得して、天地の理法に即応する生き方を身につけるということが、もう絶対のおかげの早道である。しかもそのおかげは形だけのおかげではない。お徳を受けるというおかげである。薬れ祈れにするからおかげにならんという様な信心。いうならば薬を飲んだらおかげを頂いたという様なおかげだけにしか住んでいないような人達がどのくらいたくさんあるか分からない。これでは、おかげのどうどう回り力とか御神徳とか光りとかいうようなものは実に、まだまだ一心発起しなければならない。それにはまず。、ひとつ五感の楽しみというものを捨てなければならない。そこに私が皆さんにいつも申しますように、楽はせんぞ、という気になるのです。よかもん食べようとは思いません。良かもん着ようとも思いません。お芝居見ようとも思いません。温泉に行かんならんとも思いません。そして、楽はさせて頂くものだ。という事なんです。自分が求めてしようという気に必ず、不平不足が起こって来る。できんから。それというて楽になったかというて決してそうでないです。お芝居を見ただけであって、本当の心の助かりになったかというとそうでない。けれどもさせて頂く楽ならばです。もう行こうと思わんけれども、さっちむっち温泉泉に行かんならんようになったり、行こうを思わんけれどもお芝居を見せて頂いた、もう本当にもったいない、もったいないですから、心も助かる、五感の楽をして心が助かるそれは、法然が、行じた様にもう本気で信心一筋になることです。もう法然が体得した、極楽の世界というものはもう南無阿弥陀仏と唱えてさえおれば、心が極楽行きを実証した訳です。理屈じゃ無いです。そうゆう意味で大祓い信行は、有り難いものであることが分かりますね。というて朝から晩まで、法然の様に大祓信行を上げておるわけにはいきませんからね。けれども上げれるなら、上げたほうがよい。上げられるならもう絶対食べ物は誰かがもってみえる、着物は誰かが持ってくるような、働きになるでしょうね。けどそれは、また極端な生き方ですけれども、例えば金光様の先生ちゃそうですよ。別にあなた給料貰うわけじゃなし、働きに行くわけじゃないですからね。ただ一心不乱に神様に心を向けてさえおれば親先生は、これが好物じゃけんちゅうて皆が持って来て来られるのと同じですよ。皆さんの場合は、そういう話には行きませんけどです、まずおかげの早道として、信心をいよいよ分からせて貰うということ。祈れ薬れにするからおかげにならんという様なところを味おうて頂きたいと。祈れ薬れじゃなし、薬れ祈れにするからおかげにならんと断言しておられる、いやそればってん、神様にお願いせんばってん薬飲んだらおかげ頂いたと。だから、その効いたというおかげぐらいは頂けるというのです、けれどそれは痛いのが直ったというぐらいのおかげでしょうが。その痛かったことを通してです。頂くおかげというのは、力でありお徳だというのです。そのためには、薬が中心じゃない。信心を中心にする生き方にならなければ、おかげにならんというのではなくて、おかげになると確信の出来れる信心をさせて頂かなければいけません。信心が信心になってないということです。
お徳の中に六感がひらめく人があります。やはりひとつの徳です。第6感が働く。いうならばインスピレーションとでももうしましょうかね。眼に見えない世界のことが心に響いてくる。それを私はお徳というならばです。まず5感を捨てて、5感の他に心に頂くおかげを併せて六感というのですから。心を芯にしておけば後は、楽にさせずにはおかんという働きが起きてきますから、五感の全てが足ろうから、六感ということになるのです。六感の世界というか、いうならばお徳の世界というのはまず、5感を捨てきってはじめて頂けるんだと思うですね。どうぞ。